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為末大(ためすえだい)/ひと

プロフィール

為末 大(ためすえ だい)
プロ陸上(ハードル)選手
アジアパートナーシップファンド(APF)所属
1978年5月3日生まれ、広島県広島市佐伯区出身
広島県立皆実高等学校、法政大学経済学部卒業

これまでの足跡

1993 広島・五日市中学3年時に全日中(全日本中学校陸上競技選手権大会)100m&200m2冠を達成。三種競技AとBでも、その年の中学1位記録を打ち立てる。
1996 世界ジュニアのトラック競技400mで4位、1600mリレーで2位を獲得。同年インターハイ400m優勝、広島国体も400mと400mハードルを高校新記録のオマケ付で優勝。この時の400mの記録は2004年に金丸祐三(かねまるゆうぞう)選手に塗り替えられるも、400mハードルは高校生初の50秒の壁突破となり、破るのは至難の業と言われる49秒09という驚異的な大記録を樹立する。この記録は2007年9月現在、未だ破られていない。
1997 世界室内1600mリレーで5位入賞。
1999 ユニバーシアード400mハードルで準決勝に進出。
2000 シドニーオリンピック400mハードル、予選敗退。
2001 世界陸上エドモントン大会男子400mハードルで、日本人初となる銅メダルを獲得。また、この大会でマークした47秒89は現在も日本記録である。(2007年9月時点)
2002 大学を卒業後大阪ガスに入社。
2003 より厳しい環境を求めて大阪ガスを退社し、「プロ陸上選手」に転向。世界陸上パリ大会に出場したが、惜しくも決勝進出を逃す。
2004 アテネオリンピックで準決勝敗退となるも、世界ランキング上位者のみ出場が許されるワールドアスレティックファイナルに日本人選手として初めて出場し、6位入賞を果たす。
2005 世界陸上ヘルシンキ大会にて見事に自身2度目の銅メダルを獲得。トラック種目で2つのメダル獲得という、日本人初の快挙を成し遂げる。
2007 世界陸上大阪大会に出場するも、コンディション等の不調もあり予選敗退。現在、2008年に控える北京オリンピックに向けて更なる進化を模索中。

ガンバレ、為末大!!

予選敗退

2007年8月25日に開幕した、世界陸上大阪大会。その日、会場となった長居陸上競技場のスタンドからため息が漏れた。前回のヘルシンキ大会の銅メダリストとして、それ以上のメダル獲得を期待されていた、日本陸上界を代表するハードラー為末大選手が、早々と予選で姿を消してしまったからだ。

為末選手は、スタートして1台目のハードルで振り上げる左足をひっかけると、レース前半から勢い良く飛び出す本来の走りをできないまま後半へ。それでも第10ハードルまでは予選を通過できる4位の好位置に付けていたが、その後2人に交わされ6位でゴール。準決勝に進める予選各組5着以下の中で、タイム上位者4人までという基準に僅か100分の1秒届かず、01、05年世界陸上400mハードルの銅メダリストは、準決勝に進むことなく予選で姿を消した。

「自分自身のふがいなさ。自分を許せない気持ち。」レース後そう語った為末選手。自身のブログにも、「日本選手団の初日にこういった結果になってしまって、せっかくの地元開催の勢いに水を差したようで申し訳なく思っています。応援に来てくれた方、来てくれようとしている方、本当に申し訳ありませんでした。」と綴った。彼の胸中は、申し訳ない、情けない、そんな気持ちでいっぱいだったに違いない。

学生時代の反骨精神

「元々、子供の頃から走るのは速かった」とは、あるテレビ番組に出演した際のご本人の弁。それを裏付けるように、小学校時代には少年野球で盗塁を何度も決めてしまったことから、「盗塁禁止令」が出たほどだったとか…。中学時代には100mと200mで全国1位、高校時代には日本記録をマークする、言わば「陸上エリート」だった。

そんな陸上のエリート街道まっしぐらだった為末選手も、学生時代には陸上部の厳しい規則に反発してか、「茶髪にピアス」だった頃もあった…らしい。なんでも当時は「結果を出して認めさせる。どう見返すか、どうやり返すかということばかり考えていた」んだそうだ。

後に為末選手は、世界陸上やオリンピックなどの世界大会は、「お金じゃなくてプライドを賭け合う、世界で一番大きな賭け事の場」であり、そこでの試合は「ちょっとのことで順位が変わるし、実力云々よりは、勝負にいたる心境みたいなもので変わるんじゃないか」という心理戦だと言っているが、こうした独特の勝負勘は、学生時代の反骨精神の上に築き上げられたものなのかもしれない。そして、この反骨精神こそが、為末大という男を動かす原動力であり、彼の最大の武器になっているんではなかろうか。

プロ転向

大学卒業後、2002年に大阪ガスに入社した為末選手だったが、大学時代に世界陸上エドモントン大会で日本記録となる47秒89をマークして、短距離・ハードル種目ではオリンピック、世界陸上を通じて日本人初となる銅メダルを獲得し、既にトップアスリートの地位を確立していた彼にとって、走り続けるためには何か理由が必要になっていた。そんな中、父・敏行さんが癌に倒れてしまう。最愛の父が病魔と闘う中で、為末選手は自分が走ることに何の意味があるのか、と考えるようになる。

2003年7月20日、5ヶ月の闘病の末、敏行さんは54歳の若さで帰らぬ人となった。しかし、父は死の直前、苦悩する息子にある言葉を残した。

「やりたいようにやれ。」

その言葉に背中を押されるように、2003年10月31日、為末選手は大阪ガスを退社し、おそらく日本初の例となるプロ陸上選手への道を走り始めた。ケガやスポンサー契約など様々な困難はあったが、「(走ることが)仕事だったら、誰かの役に立つのであれば意味がある。そうしないと自分に言い訳がつかない」、そう思っての決断だった。専任コーチはいない。トレーニングプランや食事の管理なども全部1人でやった。自分で自分に責任を持つ、為末大の試行錯誤の日々の始まりだった。

為末選手との出会い

多分、初めて彼を見たのはシドニーオリンピックの時だったと思う。9台目のハードルを引っ掛けて転倒し、その場にうずくまってグーで地面を叩きながら悔しがる姿が、テレビの映像を通して目に飛び込んできた。とても印象的だった。通常、公の場では感情をあらわにすることが少ない、と言われる日本人では異色のタイプだと思った。その後しばらく経って、彼が日本では珍しいプロの陸上選手であることを知り、おいらは為末大という男に興味を持った。

世界陸上ヘルシンキ大会

シドニーオリンピックから5年後。世界陸上ヘルシンキ大会で、スタートから飛び出した為末は、中盤までトップで快走した。時折豪雨で競技が中断するほどの悪天候だったが、他の若い選手達が動揺する中、為末選手は豊富な経験を元にレースに集中。終盤に入って2人に交わされたが、最後は倒れこむように体を前に投げ出してゴール。あまりの勢いに、ゴールと同時に転がってたっけ。

ところが後続の選手との着差がビミョーで、中々結果が表示されない…。為末選手も電光掲示板を気にしていた。やがて遂にその瞬間は訪れた。電光掲示板の3位のところに、「Dai Tamesue」の文字が…。48秒10の自己セカンドベストの記録で、自身2度目となる銅メダルを獲得したのだ!世界大会のトラック種目で2つのメダル獲得は、日本人初の快挙だった。

そして…男、為末、こぶしを突き上げ周囲をはばかることなく男泣き。ううう。おいらも泣いた。今思い出しても泣けてくる。頑張った。ほんとによく頑張った。レース後のインタビューで、「父のために取ったメダルです」と涙ながらに言っていたが、それは「父からのご褒美」だったんではないか、とおいらは思う。

侍ハードラー

元々、身長170cm、体重66kgと、陸上選手としては決して恵まれているとは言えない体で、「小さなハードラー」というキャッチコピー(?)が付けられていたようだ。けど、完全独立採算制の「プロ」というカテゴリーで戦っていること、愛読書が新渡戸稲造著の「武士道」だったりすることなどから、いつしか「侍ハードラー」という異名を持つようになった。ちなみに、先に登場した彼のブログのタイトルも「侍ハードラー」である。

つづく...。2008年2月18日更新